第24回音楽会 マタイの部屋 Essays
2012年7月28日(土)いたみホールの第24回音楽会では、J.S.Bachの「マタイ受難曲」をオーケストラと一緒に歌いました。団員からのマタイに向けた想いをご紹介いたします。
バッハ「マタイ受難曲」へのオマージュ 「随想「マタイ受難曲」」
■ バッハ「マタイ受難曲」へのオマージュ
昨年秋の宝塚市民合唱祭(ベガホール)でバッハ「マタイ受難曲」の終曲(68曲)を歌ったとき、なにか胸にこみあげてくるものがあり、De-javu(既視感)めいた感覚に捉われ
ました。思案するうちに、その正体が、大昔に映画で観た「マタイ受難曲」の終幕ではなかったかと思い至り、帰宅して心当たりの古いメモ帳を覗いていると“昭和32年4月 イギ
リス映画「マタイ受難曲」(カラヤン指揮)を観る。名篇なり。前編、後編あわせて3時間半。終幕近く嗚咽する。”と記してあり、半世紀余りむかし、大学生の頃の、もう霧の彼方
に消え去った記憶が次第に蘇ってきました。バッハの「マタイ受難曲」全曲を、福音書のキリスト受難の場面を描いた数々の名画と重ね合わせて撮られた白黒映画で、マンテーニャの
絵と思しきキリスト埋葬の場面に流れる信徒たちの清澄な合唱で幕を閉じる瞬間が次第に眼前に浮かんできたのです。
高校生の頃からバッハが好きになり、A・シュヴァイツアー(オルガン)の「トッカータとフーガ」やK・ミュンヒンガー(指揮)の「ブランデンブルグ協奏曲」などのSP盤を手製の
電蓄で聴いたり、設立間もない京都市響でK・チェリウス(指揮)の「管弦楽組曲第2番」を初めて生で聴いて興奮し、さらには、当時音楽フアン必読の良書と言われていた「夫セバ
ステイアン・バッハの回想」(服部龍太郎訳)という本を読んでたいそう感激したことなどが次々に想起されてきました。この本はバッハの後妻で13人もの子供を産んだマグダレー
ナ・バッハが、夫の死後、ともに歩んだ生活を回顧して情愛深く綴った感動の書であり、大家長、慈父、恋人としてのバッハの人柄と偉大な作曲者としての創作の秘密を語り明かした
素晴らしい書物でした。マグダレーナの真作とされ、小林秀雄や河上徹太郎など当時の大評論家たちも絶賛して止まなかったこの本が、実はマグダレーナの著ではなく、20世紀に入
ってアメリカの女流作家エッサー・メイネルという人が書いた物語であるということが、バッハ研究学者の辻荘一によって明らかにされ(辻荘一「バッハ」岩波新書)、少なからず驚
いたことも併せ思い出しました。先日、この本を50余年ぶりに読み返してみて、今日でも新鮮な魅力を失っていないのに改めて感心しました。本の中で「マタイ受難曲」に言及して
いる個所を抜き出してみますと“この音楽はセバステイアンの心のいちばん奥底から出たものでした。みづから悩み、被造物の罪をみずから感ずることなくしては、とうていキリスト
の創傷と十字架上の死を想像できませんので、彼はそれをはげしい苦悩のうちに書きました。この音楽は1729年の復活祭の前週に初めて演奏されましたが、それは誠に偉大過ぎて、
初めて聞いた時には真髄が理解されませんでした。この曲を閉じる合唱曲はセバステイアンの天分が成しとげた偉大な作品の中でも特に素晴らしいものです。”この本について、後年
音楽評論家の遠山一行が
“著者はバッハの音楽を繰り返して聞き、その音楽を信ずることによって、マグダレーナの愛と信頼の意味を理解したのだろう。それにしても、驚くべき ことであると言わなければならない。”(復刻版解説 角川書店)と述べ、また、“マタイ受難曲は、戦争の末期、学徒動員の第一陣として軍隊へ入る直前に、当時の日響(N響の前身) の定期公演で、コーラスの一員としてこの曲を歌ったときの深い感動が忘れられない。素人合唱団のことだから、たっぷり一年間も練習を重ねたが,公演の日には、最後の二重コーラス に入った途端に、涙が出て歌えなくなってしまった。”(「名曲の楽しみ」新潮社)
と述懐しています。
古い本棚からマグダレーナの本を探し出したついでに、これも一昔前に愛読した経済史学者・松田智雄の名著「音楽と市民革命」(岩波書店)のページを繰っていまら、「マタイ受難曲」
に言及した個所がみつかりました。
“「マタイ受難曲」をバッハは自らの手で、その総譜を美しく綺麗に書き,きちんと定規を使い、福音書朗読者の語る言葉は赤インクで書き改めている。
この曲ではバッハの熱烈な「イエスへの愛」が歌われ、キリストはその苦しみの中で、人とともに苦難を経て、神と人との間の仲介者となる。最後の十字架の上から、イエスは「わが神、
わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか(61曲a)」と問い、その苦悶を表白する。だがこの曲の終曲は、その逝ける救い主にたいして、人の側から根本的な深みから発し
てくる感動を歌う告別のことばである。その憧れにみちた美しい挽歌は、神の力を讃美する。これこそは終わりであるが、また新しい始まりを宣言するのである。”
バッハの死後「マタイ受難曲」は長い間忘れ去られて、一部の識者の研究対象としての地位に甘んじていましたが、この曲の初演から数えてちょうど100年ぶりの1829年に、
20歳のメンデルスゾーンがベルリンで指揮して再演し、それが今日のバッハ全作品の“蘇り”と評価につながったとされています(M・ゲックク著「バッハ」大角欣夫訳 音楽之友社)。
バッハといえば、近年はG・グールド、高橋悠治らヴィルトゥオーゾのピアノ演奏を枕頭の音楽としてCDで聴くだけでしたが、「古さ」のなかに時代を越えようとする新しさにいつも魅
せられてきました。今回、はからずも、若い皆様とともに、大バッハ畢生の大作「マタイ」全曲にチャレンジできる機会を得たのはわが晩年のおおきな悦びです。本番を歌い終えるまで、
声帯が感涙にむせて絶句することがないよう乞い願うのみです。
■ 随想「マタイ受難曲」
「マタイ受難曲」に登場するペトロは、イエスの最初の弟子にして、後に初代ローマ教皇となるが、西暦67年頃ローマ皇帝ネロの迫害を受け、逆さ十字架で殉教した。ローマで布教し
キリスト教発展の礎を築いたパウロも65年頃同じくネロの迫害で殉教している。それ以降もキリスト教の歴史はその教えが社会に広く受け入れられていく過程で、あまたの殉教があ
ったことを伝えている。
イエスが生きた時代、ローマ帝国の属州であったユダヤ地方の支配層体制派は祭司、地方貴族、地主であった。律法にこだわらず、私的な富を非難し、隣人を愛することを説くイエスは
いわば反体制派であったといえる。支配層の中でもとりわけ祭司層は民衆の人気を集めていたイエスに反感を抱いていた。これがイエス受難の社会的背景である。
受難はペトロと並んで12使徒の中で、リーダー的存在であったユダが、銀貨30枚でイエスを売り渡すことから始まる【7・26曲】。ペトロも自分がイエスの弟子であることにより、罪に問
われることを恐れ、3度も師とは無関係と言った【16・38曲】。当時、過越祭に囚人を1名を恩赦する慣わしとなっていたが、祭司等に扇動された民衆はイエスではなく、バラバを恩赦せよと
叫ぶ【45曲】。ローマから派遣されたユダヤ属州総督ポンテオ・ピラトは、当初からイエスの無実を確信していたが、社会的混乱を恐れ民衆の声に押され、ついにイエスを磔刑に処してしま
う【50曲】。自らの行為を悔い自殺したユダを除き11使徒はことごとくイエスの処刑を前にイエスを見捨てて逃げてしまう。
受難後、イエスは3日目によみがえり、11人の弟子たちの前に姿を現し、「あなたがたは行ってすべての国民を弟子とせよ」「私は世の終わるまでいつもあなたがたと共にいる」と語る。
このイエス復活という宗教的体験を経て、弟子たちは自らの背信行為を深く悔い、イエスの教えを熱心に世に広めた。殉教せずに94歳まで生きたヨハネを除く10弟子はことごとくインド、ペル
シャ、スキタイ地方等で殉教を遂げている。その後も時代時代で殉教者が出たが、殉教に至らなくても献身的布教に努めた信者は数限りない。その結果キリスト教は今や、ローマカトリック
11億3000万人、東方正教会 2億2000万人、プロテスタント 4億6000万人の信者を擁する世界宗教になった。
「マタイ受難曲」の最後の2曲67,68曲はイエスを裏切った弟子たちの心からの思いである。
♪合唱「私のイエスよ お休みなさい(Mein Jesu, mein jesu, gute Nacht!)」
♪アルト「私の罪があなたをこの苦難に陥れたことを!私が悔い悲しんでいるさまを見てください。」
♪ソプラノ「あなたが私の魂の救済をかくも重視してくださったことに対して、あなたの受難に対して、命のある限り感謝し続けます。」 以上【67曲】
♪合唱「安らかに憩い給え(Ruhe sanfte, sanfte ruh!)」【68曲】
静寂が支配する墓を前にして、弟子たちがひざまずき、むせび泣きながら強く語りかける。
合唱「安らかに憩いたまえ」は最初ピアノで、次にフォルテで繰り返し歌われるが、私は自らの裏切りによって師を死に至らしめた後悔を背景にした弟子たちの押さえ切れない感情の高まりを
バッハは表現したかったのだと思う。ルター正統派の敬虔な信者であったバッハ自身の思いでもあったかもしれない。それにしてもなんと静かで、美しい調べだろう!!