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宝塚混声合唱団

Takarazuka Konsei Gasshodan (Takarazuka Mixed Choir) since 1980


第26回音楽会 オラトリオ「四季」の部屋   Essays

2014年8月24日(日)の第26回音楽会では、西宮アミティホールでハイドンの大作オラトリオ「四季」をオーケストラと一緒に歌います。音楽会に先がけ、団員からの「四季」に向けた想いをご紹介いたします。

「F・Jハイドン覚え書」 「(続)F・Jハイドン覚え書」


(続)F・Jハイドン覚え書

―「四季」についての2つの言説から ―

テナー  福田  伸

(1)

   昨年夏からはじまりました畑 儀文先生のハイドン「四季」の練習は、秋、冬を経てこの春には季節がほぼひとめぐりし、あとは今夏8月の本番に向けて追い込み練習という段階に入りました。柄にもなく「四季」曲目解説を引き受けてしまい、少し勉強しなければと、手始めに、大昔に読んだスタンダールのハイドン伝のことを思い出し、図書館で探したら首尾よく見つかりました(「ハイドン」スタンダール著 大岡昇平訳 音楽之友社 昭和40年再刊 初刊は昭和16年 創元社)。

   著者のスタンダール(1783~1842)は、言わずと知れた「赤と黒」や「パルムの僧院」など恋愛と戦争を中心とした心理小説で名高いフランスの文豪、訳者の大岡昇平(1909~1988)はスタンダールを師表と仰ぎ「野火」や「武蔵野夫人」などの名作を残したわが国戦後文学の代表的旗手です。いまから200年前の1814年に書かれたこの本は今日のハイドン研究の水準からみるとかなり陳腐ではありますが、簡潔な文体と機知に富んだ表現でハイドンの大らかな人柄と歓喜に満ちた音楽の特性、同時代の音楽界の状況などが縦横に語られていて、訳文も流麗であり、歳月を経ての再読には感慨深いものがありました。

   本書はスタンダールが1812年にナポレオンの軍人としてモスクワに遠征して敗退し失職中に、ハイドン晩年の友人であったイタリア人音楽評論家J・カルバーニの「ハイドン伝」の記述を無断で借用してそこに自分の音楽観や美術観を加えて書き上げたものです。 小林秀雄が名評論「モオツアルト」(1945年)で夙に指摘しているように本書は盗作まがいの書物ではありますが、訳者の大岡昇平が巻末解説で述べているとおり、カルバーニの地味なハイドン研究がスタンダールの名文で彩られたお蔭でハイドンの事績が後世に残る機会を得たと言うべきでしょう。

   脱線や飛躍の多い本書の内容を要約することは至難ですが、「イタリア絵画史」の著者で もある本書の著者は、“音楽は肉体的、感情的興奮のうえに立ち、絵画は理知的な楽しみに多く依存する”との持論をもとに随所で音楽と絵の比較、音楽家と画家の対比分析を試み、また、ハイドンの「天地創造」の崇高さを賞賛するいっぽうで「四季」の現世的な優美性を称え、一転して伝説の名歌手A・ストラデッラの灼熱の恋の冒険譚に立ち入って後年の恋愛小説家の片鱗を示したり端倪すべからざるものがあります。もちろんオーストリアの片田舎から身を起してヨーロッパ全体に名声を轟かせ、78歳の長寿を全うしたハイドンの生涯についても、後のハイドン伝で引用される数々のエピソードを交えながら生きいきと描いています。

   紙面の都合上、ここでは「四季」についてのハイドンの記述のみかいつまんで抜粋してみます。

  • “「天地創造」の成功に励まされ、また友人スヴィーテン男爵の勧めに従って、ハイドンは2年後に「四季」(1801)を書いた。描写派の男爵は台詞をJ・トムスンからとったが、その台詞は貧弱だ。”

  • “「四季」の主題は快活、収穫の喜び,俗世的な恋愛などである。「天地創造」さえなかったら「四季」は描写音楽において世界最大の傑作だったろう。”

  • “「四季」の音楽については、ジャンル、画題、色彩がそれぞれ違った画を並べた画廊を想像してもらいたい。画廊は4つに分かれ、各室の真ん中に一つの支配的絵画が置いてある。最初のものば、雪、北風、寒気とその脅威だ。夏は嵐、秋は狩、冬は村人の夜の集い。”

  • “僕はハイドンの「四季」のうちに音楽界のテイントレットを見る気がする。彼はミケランジェロの力に熱と独創と豊かな発明を結合した。すべては優美な色彩で覆われ、画面の隅々にいたるまで目に快いものにしている。”

  • “「天地創造」では登場人物は天使だったが、「四季」では百姓だ(ハイドンの言)。”

   なおスタンダールば1809年のハイドンの葬儀に、ウイーン侵攻中のナポレオン軍の一員として参列しております。


(2)

   つぎに、大岡昇平の旧制成城高校の後輩で、気鋭の欧州経済史家・音楽評論家として活躍した松田智雄(1911~1995)の晩年の主著「音楽と市民革命」(岩波書店 昭和58年刊)のなかの一節“ハイドンードイツ市民革命の形成者”を再々読してみました。

   この節は本書のなかの白眉というべく、重厚で含蓄の深いハイドン論を展開しております。スタンダールはハイドン晩年の2大オラトリオのうち「天地創造」のほうに肩入れがみられましたが、松田はむしろ「四季」のほうに記述の多くを割き、自らの感動的な「四季」出演体験にも言及しています。大岡がスタンダールの「ハイドン」を訳した昭和16年(太平洋戦争勃発の年)、松田は旧制高校生で、成城合唱団の一員としてJ・ローゼンシュトックの指揮、日響(N響の前身)の演奏で「四季」を歌っておりますが、レコードも総譜もない中、ドイツ語の歌詞を仲間で手分けして邦訳し、手探りで練習を重ねた体験を振り返ってつぎのように語っております。

“そのときを回想するのはたのしい。第2曲<来たれやさしい春>の春への待望のうた、3人の独唱者と青年の喜びの合唱が織りなす第8曲<美しき眺め>。夏になると第12曲の<栄えあれ太陽>の太陽讃歌。第18曲の<暴風は近づく>の激情とこれに続く第19曲の結び<昨夜の鐘と昨夜の星>の静かな息づき。秋は収穫の季節であり、第22曲<おお,勤労よ>の力強いフーガ。第30曲<ユーヘ、ユーヘ、葡萄酒はここに>のバッカス的な舞曲。そのあとには冬が訪れる。女声合唱の第38曲<くるくる廻れ、糸車よ廻れ>の楽しい語らいの時間がくる。そして終曲の壮大な合唱に入る。<永遠の朝>を待望する讃歌であって、あのシェレーの“冬きたりなば春遠からじ”の句を想起させる終曲でもあるであろう。”

   松田はスタンダールが”貧弱だ“と断じたJ・トムソン(1700~1748 スコットランドの詩人)の「四季」(The Seasons)の台詞についても、“最善の世界についての思想がこの田園詩の背景になっている“としてその魅力をたたえ、“天使でなく農夫によって歌われる”ことに意義があると述べ

“「四季」全曲には、多分の思想性・社会性が溢れているばかりでなく、精神的・音楽的にもいきいきとした流れに起伏があって、聴いていて快い名作である。歌っては、より一層楽しいかもしれない。歌う者と聴く者が心を一つにできる歌である。”

と論を結んでおります。

   今からでも遅くない、ハイドンの奥深い音の底を究め、声高らかに歌い上げたい。それには、”自分の足で歩いて源流を辿る“(畑 義文先生のMessage)工夫を重ねて行くしかない。その一助にもなろうかと、黴臭い2冊の書物の中に”温故知新“の意を込めてハイドン「四季」が放つ力強いメッセージの一端を探ってみました。


付記: 「四季」の台詞について長尾 精先輩の丹精のこもった注解を読ませていただくうちに、J・トムソンの原詩が読みたくなって探してみたのですが、見つからず、先日、イギリスに住む愚娘に尋ねたところ、なんとそれは5、000行を超える冗長な詩で、ミルトンの名高い長編叙事詩「失楽園」(ハイドン「天地創造」の台詞の原詩となった全編約1,500行)の3倍余りの長さがあり、イギリスでも今日ほとんど顧みられない由でしたが、送ってくれた原詩の冒頭(春)は
   Come gentle spring aetheal mildness come
で始まり、末尾(冬)は
   The storms of wintry time will quicly pass
   And unbounded spring encyrcle all
で終わっていて、松田智雄の言のようにシェレーやワーズワースの田園詩の先駆をなし、ハイドンの「四季」の曲想や雰囲気にぴったり符合すると感じ入った次第です。

F・Jハイドン覚え書

テナー  福田  伸

1.折々の出会い

   今年8月から畑儀文先生にご指導いただき、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンの大作オラトリオ「四季」を歌うことになりました。私はハイドンが割合好きで交響曲や弦楽四重奏曲室など器楽曲は随分聴きましたが、声楽曲には疎く「四季」は全曲通して聴いたことがありませんでした。

   ところが初日、冒頭の第2番(合唱)の練習が始まるとメロデイーをうっすらと覚ええているのに気づきました。この曲は就職して最初に配属された北陸の金沢で、昭和34年の暮れの雪降る夜に岩城宏之指揮、大阪放送合唱団の労音公演で“ハイドン「四季」ハイライト”を聴いたときに歌われた“来よ春!”という曲で、そのむかし高校時代に合唱祭で聴いたことも思い出され、心が浮き立ってきました。

   そもそもクラッシック音楽を生で聴いたのはハイドンが初めてでした。敗戦間もない昭和23年、新制中学の音楽授業の一環で京都朝日会館に連れて行かれ、朝比奈隆指揮、関西交響楽団(大フィルの前身)の演奏でハイドンの交響曲第94番<驚愕>とシューベルトの「未完成交響曲」を聴きました。朝比奈さんは満州から引き揚げてきて“関響”を立ち上げたばかりで、 若々しく貴公子然とした雄姿がいまでも眼前に浮かびます。  海外でのつましいハイドン体験ですが、昭和50年の春、電気通信関係の国際会議で初めてヨーロッパに出張してジュネーブに滞在していたとき、思い立って音楽の都ウイーンを訪ねてみました。夜の街をさ迷い歩いていて“エステルハッジーケラー”という看板のかかった古い洞窟のような居酒屋を見つけて入り、ワインを飲んでいると、 ツイッターを抱えて寄ってきた老樂手に乞われ、“エステルハッジー”の名からの連想でとっさに“ハイドン“と呟いたところ、<セレナード>、<ひばり>、<皇帝>など懐かしいメロデイーを次々に爪弾いてくれ、うれしさのあまり杯を重ねて酔いしれてしまった次第でした。

   「四季」と並ぶ声樂の大曲「天地創造」を初めて聴いたのはハイドン生誕250年にあたる昭和57年、東京杉並公会堂で催された三石精一の指揮による教会合唱団の合同演奏でしたが、大変な熱演に感動しました。演奏終了後に讃美歌116番“みそらみかみの”(第1部の終曲)を会場の全員で合唱したことが忘れられません。

2.「四季」の魅力

   畑先生のご指導は自らの美声で練習を先導いただいたり、「四季」の時代背景についてコメントをいただいたり大変魅力的で、できれば曲の全容を早く知りたい、そして昔読んだハイドンの伝記などを再読してみたいとの思いが募り、まずは先日、H・ケーゲル指揮、ライプツイヒ放送交響楽団・合唱団の「四季」全曲をCDで通して聴いてみました。 自然の移り行きと人びとの営みが、<春>の農作業、 <夏>の嵐、<秋>の収穫、<冬>の手仕事などさまざまな事象の起伏を通じて田園風俗画のように音楽で美しく描きだされ、最後は神への敬虔な祈りの大合唱によって閉じられます。聴きだしてまず驚いたのは<春>第4番アリアの伴奏にあの懐かしい<驚愕>の第2楽章の主題が出てきたことでした。また<夏>の夕立ちや<秋>のぶどう狩りの場面の音楽に、ベートーベンの「田園交響曲」やウエーバーの「魔弾の射手」の 情景を思い浮かべて、ロマン派音楽への胎動を感じました。この曲は、J・トムソン(ワーズワースやシェレーの先駆者)の英詩に素材をとり、オーストリア農村を舞台にしているとのことですが、聴いていて音楽が展開される場所はイングランドの牧草地であっても日本の田園地帯であっても一向に差し支えなく、自由な連想を許す普遍性があり、近年綻びが目立ってきた地球環境や人心の荒廃を洗い浄め、造り直して行く力を 与えてくれる懐の大きさを感じました。

   ちなみに松田智雄(経済学者・音楽評論家)が、戦争直前(昭和16年)の旧制高校生のときJ・ローゼンシュトックの指揮・日響(N響の前身)の演奏で、初めて「四季」を歌ったとき、レコードも総譜もないなか、ドイツ語の歌詞を仲間で手分けして邦訳し、手探りで練習を重ねた体験を振り返って

「そのときを回顧するのはたのしい。第2曲”来たれ、やさしい春“の春への待望の歌。そのなかには流れるような春の鼓動が波をうっている。また、三人の独唱者と、青年の喜びの合唱とが織りなす第9曲”美しき眺め“の躍動する青春の讃歌。 
~ 中 略 ~  「四季」の全曲には多分の思想性・社会性が流れているばかりでなく、情緒的・音楽的にもいききとした流れの起伏があって、聴いていて快い名作である。歌ってはより一層楽しいかも知れない。歌うものと聴く者とが心を一つにできる。」

と述べております。

3.いくつかのエピソード

最後に、目下読み直し途中の古い本から、ハイドンの生涯をめぐるエピソードをいくつか拾い出してみます。

  • ハイドンは1732年にウイーン南方の小村に貧しい車大工の息子として生まれ、宮廷音楽家として、市民音楽の形成者として数えきれないほどの傑作を生み出し、存命中に最高の栄誉を一手に納めて、1809年にウイーンで老衰のため77歳で亡くなった。
  • “パパ・ハイドン”と呼ばれたように、ハイドンの人柄は穏和で均衡のとれた性格であっ たが、その恵まれた人生で唯一の不幸はアンナという凡庸な年上の女性と結婚したことである。敬虔なカソリックであったハイドンは悪妻と添い遂げたが、美しい年下のイタリア人女性歌手ボルツエッリが“こころ妻”としてハイドンに“愛の彩り”を与えた。
  • 18世紀末のウイーンでモーツアルトとベートーベンとはそれぞれハイドンと関わりが あった。1780年頃ハイドンは24歳年下のモーツアルトと出会い、演奏を共にしたり作曲を競いあったりして91年のモーツアルトの早過ぎる死まで親交を続けた。いっぽう1793年にボンからウイーンにやってきたベートーベンは40歳近く年上のハイドンに作曲の弟子入りしたが、新時代の情熱に燃える青年は幸福な過去を 愉しむ老人とはそりが合わず、やがて二人は袂を分かった。
  • 「四季」作曲より少し前の1797年にハイドンが作曲した弦楽四重奏曲<皇帝>の第2楽章は、英国滞在中に「英国国歌」の厳かな旋律に着想を得て作られ、”皇帝讃歌”としてフランツ一世に捧げられた。この曲はオーストリア国歌(そしてナチス国歌を経て現ドイツ国歌)として全世界に広く知られている。
  • 1801年、ハイドンが69歳のとき完成した「四季」は宮廷で演奏され、マリア・テレジア王妃(フランツ一世の妃でマリア・テレジア女帝の孫にあたる〉がソプラノを歌った。
  • 1809年、ナポレオン軍がウイーンに進攻し、シェーンブルン宮に侵入して来たとき、 ハイドンは既に死の床にあったが、起きあがって鍵盤に向かい、”皇帝讃歌”を3度も弾いた。ハイドンの葬送に集まったウイーンの音楽家たちはモーツアルトの「レクイエム」を歌って巨匠を弔った。

(「音楽と市民革命」松田智雄 岩波書店 昭59、「新版ハイドン」大宮真琴 音楽之友社 昭56、「ウイーンはなやかな日々」M・ブリヨン(津守健二訳) 音楽之友社 昭47ほかを参照しました。)



オラトリオ「四季」第2曲冒頭部分のオルゴール音色の音源です。
よろしければ、コントロールパネルを操作して聞いてみてください。