第28回音楽会 ヴェルディ「レクイエム」に寄せる想い Essays
2016年8月20日(土)の第28回音楽会では、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールでヴェルディの「レクイエム」をオーケストラと一緒に歌います。音楽会に先がけ、団員からの「レクイエム」に向けた想いをご紹介いたします。
「ジュゼッペ・ヴェルディ雑記」福田 伸 「ヴェルレク(ヴェルディのレクイエム)物語」広田
ジュゼッペ・ヴェルディ雑記
ベートーヴェンの「荘厳ミサ」が終わって一息入れて、8月からヴェルディの「レクイエム」の練習が始まりました。ドナウ河流域から一気にアルプス山脈を越えて緑したたるポー河流域に
南下してきた旅人のような気分です。馬齢を重ねながら、この曲を歌うのは初めてであり、オペラファンでもありませんので、巨匠ヴェルディについて語る資格はないのですが、明快・甘美で
情熱的な多くの傑作のなかの序曲や行進曲、アリア、合唱などはいつしか心に残り、その記憶や感慨について述べてみたいこともけっして皆無ではありません。
戦後70年を迎えましたが、初めてヴェルディのオペラ「椿姫」を観たのは、いまを去る60年、京都祇園の弥栄会館においてでした。武智鉄二の前衛的な演出、朝比奈隆が指揮する関西交響楽団と
当時の新鋭歌手樋本栄(ヴィオレッタ)と竹内光男(アルフレード)が主演する関西歌劇団の演奏で、<乾杯の歌>、<パリを離れて>など朝比奈隆の訳詞による華やかで哀切な二重唱や合唱は今も
耳の奥底に残っており、敗戦の混乱から抜けてようやく興隆期にさしかかった関西音楽界の輝きの瞬(とき)に出会えたという思いがあります。
東西冷戦が終結する少し前でしたが、北イタリアへ出張に出かける機会があり、エッセイスト須賀敦子の出世作「ミラノ 霧の風景」(白水社 1990年)を機中で読んでおりましたら、ミラノ
出身のイタリアの大文学者A・マンゾーニのことが書かれており、ヴェルディの「レクイエム」がこの人の死を悼んで作曲されたのだということを知りました。須賀はイタリアの女流作家N・ギンズブルグ
の名作「マンゾーニ家の人々」(白水社)をも流麗な文で訳出しており、ヴェルディが生きた時代の上流階級の生活と風習、土地の雰囲気をよく伝えてくれます。
ヴェルディといえば、B・べルトルッチ監督のヨーロッパ・ニューシネマを代表する傑作映画「1900年」について触れない訳には行きません。ポー河流域を舞台に、ヴェルディの生涯と19世紀
イタリアの歴史を20世紀前半のイタリア社会に重ね合わせ、地主対農民の闘い、男女間の情愛の葛藤、レジスタンス運動などが縦横に描かれ、R・デ・ニーロ、G・ドバルデューなどの名優が競演
するなか、「リゴレット」のアリアや「運命の力」序曲、それに「レクイエム」の<怒りの日>などヴェルディの名曲が随所に流れる上映時間5時間余りの巨篇で、“映像と音響の結合”の極致に接した
感動が忘れられません。
今年の初春に亡くなった作家河野多恵子が「文学界」(芥川賞150回記念号 2014年)の巻頭に載せた「歌の声」という題の短いエッセイは
“~オペラの音楽を聴かせて貰いながら逝きたいと思い、曲も決まっている。ヴェルデイの「ナブッコ」の中でユダヤの囚人が歌う混声合唱<往け、わが思いよ、金色の翼に乗って>が堪らなくいい。 逝く時が楽しみにさえ思えるぐらいである。”
という言葉で結ばれていて、たまたま昨年暮れにこの曲を男声合唱で歌ったばかりだった私は、ヴェルディの歌の"ちから“をしみじみと思い知らされました。
ベートーヴェンからヴェルディに楽譜を持ち替えることになったのをきっかけに、以前から気にかかっていた石井宏著「反音楽史―さらばベートーヴェン」(新潮社 2005年)を読んでみました。
この本はイタリア音楽が世界を先導していた18世紀の状況が抹殺されて、最初からドイツ音楽が優勢であったかのような史観がまかり通っている音楽界の現況に異論を呈し、器楽に先立つ声楽の
伝統を掘り下げて、イタリア音楽の正統性を史的に位置づけようとしたもので、題名から連想されるベートーヴェン批判の書ではありません。ただイタリア音楽家群像の活写がロッシーニで終わって
いてヴェルディへの言及が少ないのが残念なので、気鋭の音楽評論家加藤浩子の近著「ヴェルディ」(平凡社 2013年)を読み継ぎ、参照しながら、以下のとおりヴェルディの生涯と業績をごく
大雑把にスケッチしてみました。
-
ヴェルディは1813年に、当時はフランス領だったミラノ西方の小村に旅籠屋の息子
として生まれ、30曲近くのオペラや数々の声楽曲を世に送り出した19世紀イタリアを代表する大作曲家であるが、いっぽうで音楽著作権の確立に努め、自ら大農場を経営し、病院や福祉施設の
設立など慈善活動にも尽くした多面的な活動家であった。
-
父の友人パレッツィの援助でミラノに遊学したヴェルディはスカラ座でチェンバロ奏者を務めたりしながらオペラ作曲の腕を磨き、22歳でパレッツィの娘マルゲリータと結婚して男女2児を得るが、
2児が次々に夭逝したあと妻も27歳で病死し、失意と孤独のなかで創作に励んだ。1842年「ナブッコ」で成功の後、“苦役の16年間”(ヴェルディ自身の言)に「リゴレット」、
「イル・トロヴァトーレ」、「椿姫」の三大傑作を含む20曲のオペラを書き、ロンドンやパリでも公演して国際的な名声を得た。
-
経済的な安定を得たヴェルディは「ナブッコ」の初演でヒロインを歌った歌手ジュセッピーナと同棲、再婚し、1860年のイタリア統一に伴い国会議員に選ばれたが、政治的な活動とは距離を置き、
出生地に購入した農場の経営に力を入れながら、数年間隔で「運命の力」、「アイーダ」など後期の傑作を生み出し、人生の円熟期に入った1873年(60歳)に彼の最高傑作の一つに数えられる
「レクイエム」(注1)を書き上げた。
-
晩年は病院の経営、音楽家のための老人ホーム「憩いの家」の設立など社会貢献活動の先駆者として自適の日々を過ごす傍ら、シェイクスピアに傾倒して劇と音楽の融合に心血を注ぎ「オテッロ」と
「ファルスタッフ」を完成し、混声合唱曲集「聖歌四編」(注2)を作った。ジュセッピーナの死後は、スカラ座で「アイ―ダ」のプリマドンナを務め「レクイエム」の初演でソロを歌ったシュトルツ
と暮らし、世紀が代わった1901年の初頭に87歳で世を去った。
阪神大震災以降、この20年間にヴェルディの「レクイエム」を聴く機会が何回かあり、激情的で振幅の大きい音響の奔流に圧倒されて、“宗教曲でなく、オペラだ”との印象を抱いたこともあった
のですが、今回この曲の選定にあたり、畑儀文先生から“オペラチックなレクイエムのイメージを変えよう”とのお考えが示され、“大いなる喜びを持って、神の栄光のために”書いたというヴェルディ
の作曲意図を、これから練習を重ねながら体得して行くのが楽しみです。
(注1) ヴェルディはマンゾーニを追悼した「レクイエム」の完成に先駆けて、1867年、先輩ロッシーニの死に際し、音楽家仲間13人でその死を追悼するミサ曲の合作を企画し、自身は終曲
<リベラ・メ>を担当したが演奏の目途が立たず、<リベラ・メ>に手を加えて「レクイエム」に用いており、<怒りの日>のモチーフや最後の壮大なフーガはこの曲の原型を形作っていると言われる。
またヴェルディはこの曲を自分と同年(1813年)生まれの好敵手であるワーグナーのドイツ音楽に対しイタリア音楽の姿を示すことを意識しながら作曲したとも言われる。
(注2) 「聖歌四篇」は1889年から96年にかけてのヴェルディ最晩年に作られた4曲の宗教的な合唱曲をまとめたもので、冒頭の曲<アヴエ・マリア>は有名な“謎の音階”を旋律に用いた
優美な小曲であり、今回、11月の宝塚市民合唱祭で当団が歌うことになった。
「ヴェルレク(ヴェルディのレクイエム)物語」
小生がこの曲に出会ったのは、今を去る45 年以上昔、中学生のころ。ヴィクトル・デ・サバタ指揮、ミラノ・スカラ座管弦楽団・合唱団、エリザベト・シュヴァルツコップ(ソ
プラノ)、1959 年録音のモノラルレコード(名盤である)を手に入れた。
モーツアルトの伝記を読んで、かの有名なレクイエムのトリビアを知り、父にせがんで買ってもらった
モツレクのレコード(カールリヒター指揮、ミュンヘンバッハ合唱団、これも名盤)解説に
三大レクイエムとあり、モーツアルト、ヴェルディ、フォーレと記されておりこの曲の存在を知った。
このような、筋金入りのレクイエムおたくである不肖広田が渾身の解説を試みる。
本来は祭礼のために司祭者たちが歩いてくる場面なので、行進曲でなければならない。 モーツアルトのレクイエムではこの雰囲気が残っている。しかし、本曲で行進はできない。ロマン派以降の作曲家はミサ典礼よりもむしろ演奏会を念頭に作曲しており、ヴェルディだけでなくフォーレやラターのレクイエムでも行進は難しい。ロマン派の入祭唱はオペラのオバチャーのようなもの、と解するこ とができる。オバチャーとは「序曲」と訳され全曲の雰囲気を表象する。決して大阪のオバチャンという 意味ではない。
ミサ典礼文で本章だけがギリシャ語である(他章はラテン語)。欧米人にとってラテン語とは日本人にとっての漢文。ギリシャ語は日本人にとっての経文(サンスクリット語)に相当すると思う。つまり、わけがわからない分ありがたいと感じられるのである。
「主よ、(われらを)あわれみたまえ」とお願いする歌であるが、本曲ではソリスト達が輝かしく声を張
り上げる。同じ意味のラテン語に「ミゼレーレ ノービス」という言葉があるが「キリエ エレイソン」
のほうが有難味(ごりやく)ありそうである。
続唱は「怒りの日」ともいわれる。Dies(日)irae(怒り)の直訳である。 しかし、これは正しい意味を伝えていない。キリスト教では人間は死んだ後、復活し最後の審判にかけられ生前の悪行と善行の軽重により、地獄行きか天国行きかが決定する。その日のことを「怒りの日」というが、誰が怒るのであろうか?神様は偉大なものであるから「怒り」などという低俗な感情とは無縁であろう。それよりもこの日は人間にとって「恐怖の日」である。ましてや小生のように日ごろの行いの悪いものにとっては恐怖そのものである。冒頭の激しい和音は恐怖の象徴である。
音楽で「恐怖」が表現できることを発見したのはモーツアルトであると小生は思う。
オペラ「ドンジョバンニ」の終幕、石像が歩いてくる場面を髣髴させる激しい和音と半音階である。
だから私たちは幽霊など怖いものを思い浮かべ「恐怖の絶叫」を表現しなければならない。
歌詞のイレ、とイラはよく似ているが内容は全く違うので注意を要する。Irae(怒り)はRを巻き舌で
rrr と2~3回まく。Illa は「その」という指示代名詞でL(側音そくおん)のイッラ。
余談ながら欧米人には促音(そくおん)「ッ」の意識はないと思われる。おそらく書いてある通り、
「L」を2回発音している。つまり「il」と発音しその後「la」と発音する。この「il」と「la」の間隔を
限りなく短くしていくと「イッラ」に聞こえてくる。歌う時に、これを意識しておくと欧米人の発音に近
づけるかもしれない。
なお、レクイエムの元祖ともいえるグレゴリオ聖歌のDies irae は大変もの寂しい曲調の単旋律である。 この旋律は死の象徴として後世の作曲家たちによく用いられる。有名なところではベルリオーズ「幻想交
響曲」の終りのほうでそのものの旋律が生のまま現れる。マーラーの交響曲「復活」の最終楽章に現れる「復活のテーマ」は明らかにグレゴリオ聖歌の変奏である。
西洋文学を理解するのに聖書の知識が不可欠な様に、西洋音楽を理解するのにグレゴリオ聖歌の知識は重要なのかもしれない。
ヴェルレクにおいてはソリストたちが活躍する。残念ながら合唱の出番はない。 モツレクにおいては「ホスティアス」が絶妙に美しい。 個人的にはフォーレクのカノンが好きである。普段、慎み深い内声部のアルトとテノールが織りなす知的な雰囲気は他に類を見ない。
「聖なるかな」と3回唱える。これはヘブライの古い習慣に基づくもので三位一体とは
関係なさそうである。Hosanna in excelsis の対訳「いと高きところに ホザンナ」
これは誤解を招きそうである。小生は長い間「ホザンナ」という名の天使のようなものが空にいるのだろ
うと思っていた。事実は「hosannna」というのはヘブライ人たち叫び声である。意味は「神様万歳」。
∴意訳すれば「神を賛美する声が、天高く鳴り響いている」といった感じであろう。
素朴なメロディである。こういった曲は下手がすぐに露見するので気をつけねばならない。
Qui tollis は「クィ トッリス」Peccata は「ペッカータ」と読むのが正しいとされる。が、Dies illa で
説明したように子音を2回言う、という感覚のほうがよいかもしれない。
なお、神の子羊とはイエスキリストその人のことを意味する。
ここでも合唱の出番はない。ソリスト達が活躍。とても美しい。
フォーレクとヴェルレクにあってモツレクにはない。この曲だけは他の6曲とは別の時期に別の目的で書かれた。いろいろな資料に書かれているので詳しくは述べない。が、他の曲と比べて何となくキャラクタ ーが異なっているように感じる。神の許しを願う曲としては非常に劇的である。個人的にはフォーレのレクイエムのほうが歌詞に則した曲想であると思う。
発声練習の時のドイツ語の意味を記しておく。
- Stille 静寂
- Leise そっと静かに
- Freude 喜び
- Schmerzen 苦しむ
- Dunkel 暗闇、暗黒
意味を考えながら発声すると良い。ご参考までに。
<ご注意>
練習においては、歌い方や発音は、音楽部や先生にきちんと確認してください。 安易にこの記事の内容を信じてはいけません。(広田) 以上