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宝塚混声合唱団

Takarazuka Konsei Gasshodan (Takarazuka Mixed Choir) since 1980


第29回音楽会 ブラームス「ドイツ・レクイエム」に寄せる想い   Essays

2017年8月20日(日)の第29回音楽会では、いたみホールでブラームスの「ドイツ・レクイエム」をオーケストラと一緒に歌います。音楽会に先がけ、団員からの「ドイツ・レクイエム」に向けた想いをご紹介いたします。

エッセイ3:「ドイツレクイエム物語」広田
エッセイ2:「ブラームスはお好き?」福田 伸
エッセイ1:「ドイツレクイエム(ドクレク)を歌おう」広田


ドイツレクイエム物語

 
テナー  広田

ドイツレクイエムは1868年に完成し、1869年に初演されている。1868年は我が国でいえば明治元年に相当する。レクイエムとはカトリック教会において死者の安息を神に願う典礼音楽のことであり、 ラテン語の祈祷文に従って作曲される。しかし、ブラームスはルターが訳したドイツ語の聖書などに基づいて、ブラームスが自分で選んだテキストを歌詞として作曲している。 また、一般のレクイエムはある特定の個人のために献呈されるものであるが、この曲はそうした目的ではなく、広くドイツ民族のために捧げられたと考えられている。 なぜ、このように考えられるのか。それにはドイツの複雑な歴史が関係している。

この曲は1857年頃から書かれ始めた。この曲が構想されたきっかけは、1856年にブラームスの師匠、ロベルトシューマンが死去し、その遺品を整理している中に「ドイツレクイエム」なる標題を見つけ、 これに着想を得たものと伝えられる。晩年のブラームスはこのことを問われ、否定しているが、年をとって忘れてしまったのかもしれない。ともかく、ドイツレクイエムは構想から完成まで 10年以上を費やしたブラームス渾身の大作である。

ブラームスは構想を温めて熟成させるというやり方を好むようで、交響曲第1番の作曲にも20年近くの歳月を費やしている。しかし、この程度で驚いてはいけない。 ブラームスの心の師であるベートーベンは交響曲第9番「合唱」の作曲に30年余りを費やしている。

俗に「ドイツの3大B」といわれるバッハ、ベートーベン、ブラームスはこうした点でもよく似ている。かなり粘着質の男たちであったと想像できる。女性に対しては「愛ひとすじ」タイプとでもいうべきか。 バッハは別として、ベートーベンは「永遠の恋人(テレーゼ)」を追い、ブラームスはクララシューマンを追う。両名とも生涯を独身で終えている。

筆者の独断であるがドイツには3大Bのほかに「3大M」というのが存在する。モーツアルト、メンデルスゾーン、マーラーである。構想を長く温めるのではなく、その時の瞬発力で作曲する。 音楽的にも3大Bと3大Mは対照的である。3大Bの音楽は楽譜が立派でその通り演奏すれば演奏者が多少まずくてもそれなりに聴くことができる。 3大Mは下手に演奏すると全く面白くない。例えばレシピ通りに作ればそれなりにいただけるフランス料理や中華料理のような音楽とレシピ通りでも素材や盛り付けが悪ければ どうしようもなくなる日本料理の違いである。

ドイツレクイエムは広くドイツ民族のために捧げられた。が、ドイツが現在のような国の形になったのは1871年普仏戦争勝利の後、ビスマルクによって統一されたことによる。 もともと、ドイツ語を話す人々の間で同じ民族という意識は共有されていたがドイツレクイエムが成立した時点で「ドイツ」という国は存在しなかったことは記憶されてよい。

ドイツの前身は「神聖ローマ帝国」。その実態は封建領主たちによる群雄割拠であった。日本の戦国時代を想像するとわかりやすい。足利将軍と同様、 神聖ローマ帝国皇帝も実権がなかった。小国分立に思想的対立を持ち込んだのがルターの宗教改革であった。

神聖ローマ帝国はその名の通りカトリックである。最大の領主が皇帝でありオーストリアを支配していたハプスブルグ家であった。ルターは腐敗したカトリックに異を唱え「95カ条の論題」を提起する。 今から500年前の1517年であった。これが原因でルターはカトリックを破門されるが、ルターの考えは理にかなっていたのでこれに共感する封建領主は少なからず、 彼らはプロテスタントとして一派を形成した。このことに端を発して「騎士戦争」「ドイツ農民戦争」など様々な戦争が勃発する。ルターに続きカルバンがカトリックに異を唱え、 話がさらにややこしくなる。カトリックとルター派がもめている間に隣国トルコが強大化し(オスマン帝国)ヨーロッパの脅威となってきたので1555年「アウクスブルグの和議」が結ばれ ルター派の権利が認められた。が、カルバン派の権利は無視されており、これが後の戦争の火種となった。

1618年、30年戦争が勃発。名目上は宗教戦争だが実質はドイツ統一を巡る国家間の領土獲得戦争であった。カトリックのハプスブルグ家がドイツ統一を目指しプロテスタントの領主と対立。 この時、スペインもハプスブルグ家が支配していた。困るのはフランスのブルボン家である。東西からハプスブルグに挟まれるのは何としても避けたい。そこでフランスはカトリックでありながら プロテスタントを加勢して介入。その後、デンマークやスウェ-デンが介入した。30年戦争の結果、ドイツ国内は荒廃、人口は激減、ペストが流行し悲惨な状況となった。 1648年ウェストファリア条約が結ばれ30年戦争が終結。この結果、各国家の権利が認められ、ドイツは小国分立の状況が続くことになった。

宗教が関係する戦争の悲惨が痛切に反省され、以降、国家間の争いに宗教を持ち込まないことが国際ルールとなった。現在、ISがいかに非道なことをしても キリスト教の諸国が「イスラムを敵とする」と言わないことはこの時の歴史的反省に基づいている。その後も、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争、7年戦争など戦争が続くが、 これらはすべて国家間の領土獲得戦争である。ヨーロッパにおける宗教戦争は30年戦争をもって終結した、と言って良い。

音楽はバッハ(1685年~1750年)。ベートーベン(1770年~1827年)ブラームス(1833年~1897年)と発展するが、30年戦争の結果、プロテスタントの地位が安定したことは重要である。 ドイツレクイエムは壮絶なドイツの歴史の中で、特にプロテスタントの失われた命のために捧げられた曲である。ルターの翻訳によるドイツ語の歌詞が採用されたことは必然であった。

第1楽章と第2楽章は比較的早いうちに作曲された。この2曲が全曲の原型を構成している、と言ってもよい。第1楽章はほの暗く開始される。曲想を一言でいえば「冥福」つまり、 ほの暗い幸福である。キーワードはSelig(至福)とgetröstet(慰められる)。この系統の音楽は第4楽章、第5楽章、第7楽章である。「明るくない喜び」という微妙な表現が要求される。

第2楽章は当初、独立したカンタータとして構想されたらしい。葬送行進曲風にはじまり人生の空しさがうたわれる。後半は神の栄光が称えられ力強いフーガで終結する。「空しさ⇒栄光」系の音楽は 第3楽章、第6楽章に表現される。つまり、ドイツレクイエムは「冥福系」と「空しさ⇒栄光系」が交互に織りなす音楽ドラマなのである。

第3楽章はバリトンソロが「主よ、教え給え、わが終わりのいかばかりかを」と人生の無常を感じた人間の声を代表して問いかけ、合唱がこれに唱和する。 後半は「正しきものの魂は神の手にあり」と歌う典型的なフーガで結ばれる。

第4楽章は実に美しい合唱曲。冥福系の楽曲中最も明るい。Loben(誉め讃える)というワードが小さな2重フーガで表現される。冥福系の楽曲でフーガが出現するのはこの曲だけである。

第5楽章はソプラノソロとの交唱。ここでの最大のキーワードはMutter(母)である。万感の思いを込めて歌いたい。Trost (慰め)とtrösten(慰める)も重要なワードで 第一楽章にも登場している。個人的にはこの楽章が最も好きであり、名ソプラノ辻井先生と歌えることは至福である。

第6楽章のバリトンソロは第3楽章とは役割が異なり預言者風である。合唱が「我らこの地に永住の都なし」と人生の空しさを歌いだすとバリトンが「見よ、我汝らに奥義を明かさん」と語りだす。 「我らすべて眠るのではなく、変えられるのである」これに唱和する合唱はいかにも疑わしげに表現しなければならない。Posaune(ラッパ)が鳴り響き、からの記述はレクイエムの「怒りの日」の表現である。 続く「死は勝利にのみ込まれてしまった」の表現はわかりづらいかも知れない。実は聖書の中に「生と死が戦い、生が勝利した」という一節があり、それを踏まえた記述なのである。 生きている我々は、いずれ死すべき運命にあるが、生が死に勝利しているのだから、死を恐れる必要はない。最後は主の栄光を称えるフーガ。 ここでのキーワードはPreis (栄光)Ehre (名誉) Kraft(力)である。
カトリックの教会音楽であれば神の栄光を華々しく歌いあげる第6楽章をもってフィナーレとすることで全く違和感がない。しかし、人間中心のプロテスタントの音楽であればやはり人間の至福が うたわれなければ終結しない。第7楽章ではSeligというキーワードが再び登場する。
Ja, der Geist spricht(然り、精霊は言う)、オクターブユニゾン。この世のものと思われない響き。
daß sie ruhen(解放の喜び)の上昇、ihrer Arbeit(労苦)の半音階、ソプラノの腕前が問われる。
テノールのパートソロ(今より後、主のうちのあって死ぬもの、幸いなるかな)。このフレーズを歌える者は幸いである。かくして、様々な聞かせどころを通して、感動のうちに全曲が終了する。

幸いなるかな、宝塚混声合唱団。


ブラームスはお好き?

 
テナー  福田 伸

団欒の席などで好みの作曲家の名前が話題になると“ブラームス”をあげる人が多い。ご多分に漏れず私も“ブラームス”と答え、英国の音楽評論家カーダスが「近代の音楽家」 (篠田一士訳 白水社)のなかで「もし私が、孤島で数年間住むことを余儀なくされたら、ブラームスのレコードを何枚か持って行きたい」と述べていたのを思い出す。

 “ああわが懐かしきふるさと/小川のせせらぎ今日もわれを呼ぶ”と口ずさんだ優美な小学唱歌のメロデイー(ワルツ集15番)に始まって、中学の校庭でスピーカーから流れて いた感傷的な舞踏曲(ハンガリー舞曲5番)や高校の頃夜のラジオ名曲番組の開始を知らせる重厚な音楽(ハイドンの主題による変奏曲)などに接するうち、いつしかブラームスの 大曲にも馴染むようになり、大学卒業時には京都寺町の古レコード店で入手した交響曲全4曲(1番~4番:フルトヴェングラーほか指揮)のSP盤を、学友のY君が大切にしていた 丸山真男の大著「現代政治の思想と行動」(未来社)と物々交換したのが忘れられない。Y君は後年国際政治学者として活躍する傍ら「第二主題」という音楽雑誌を立ち上げたり(いちど 私にも駄文を書かせてくれた)、余興に京都市響でブラームスの「大学祝典序曲」を指揮して喝采を浴びたりしていたが、21世紀の到来を待たずウイーンで客死してしまった。

 今年の或る日曜の宵、テレビのスイッチを入れると、ブラームスの「交響曲3番」の第3楽章がV・アシュケナージ指揮のN響で演奏されていて、なんとも懐かしく心地よく耳に響いてきた。 そのむかし、フランスの女流作家F・サガンが書いた「ブラームスはお好き」(朝吹登美子訳 新潮社)という小説を下敷きにした「さよならをもう一度」というしゃれた映画があり、 I・バーグマンがY・モンタンとA・パーキンスを相手にわりなき(・・・・)恋を演じていたが、哀愁をおびたこの曲が全篇に流れていたのを思い出して、当時勤務していた仙台の晩秋の 心象風景として蘇ってきたのである。まだ仙台の街には広瀬川沿いに市電が走り、東一番丁には歌ごえ喫茶や名曲喫茶もあって、全共闘の高揚のさなか若い学生たちが“We Shall Overcome”を 高唱しながら青葉通りを闊歩していた。

 ブラームスの協奏曲やソナタを聴くようになったのは40歳を過ぎてからで、東京神田の岩波ホールでよく映画を観たあと近辺の楽器店で「ピアノ協奏曲1番、2番」や「ヴァイオリンと チェロのための協奏曲」などのLP盤を買い漁った。生で聴いた演奏としては、朝比奈隆が大フィルを率いて上京し皇太子(今上天皇)ご夫妻の御前で演奏された「ヴァイオリン協奏曲」 (独奏 石川静 虎ノ門ホール)、エリザベート国際コンクールに優勝したばかりの若き堀米ゆず子が弾いた「ヴァイオリンソナタ1番 雨の歌」(朝日生命ホール)、ブラームス生誕150周年 記念コンサート<ブラームスはお好き?>で舘野泉がピアノを弾き、数住岸子がヴァイオリンを奏でていた「ピアノ3重奏曲1番」(簡保ホール)などは歳月を経て鮮明さは欠くがいまも快い記憶 として残っている。なかでも若やかで憧れに満ちた「ピアノ3重奏曲1番」はのちに読んだ辻邦生の連作短編小説集「楽興の時 十二章」(音楽之友社)の第3章<三色董>という悲話でとりあげ られており、若く亡くなっ数住岸子への追想と結びついてしまうのである。

 ブラームスの音楽を主題にした小説としては清岡卓行の「薔薇狂い」(新潮社)の右に出るものを私は知らない。妻に先立たれ、バラ作りとクラシック音楽鑑賞を生きがいとする初老の 大学教授が<詩にあらわれた薔薇>という講義に熱中するうちに聡明な教え子の女子学生に心惹かれ、所詮実り得ない恋の傷を癒すために「クラリネット五重奏曲」を繰り返して聴くうちに 気持ちの整理がついて行くという結末の“詩小説”であるが、諦念の中に希望を潜めたこの曲はブラームスが晩年に至りついた絶品に思える。丸谷才一の遺作となった音楽小説「持ち重りの する薔薇の花」(新潮社)は、ブラームスでなくモーツアルトの曲が題材になっているが、清岡の作品を念頭に書かれたように思われてならない。

 合唱経験の乏しい私は、50歳になって初めてブラームスの「ジプシーの歌」を男声合唱で歌ったのをきっかけに「アルト・ラプソデイー」、「四つの厳粛な歌」など枯淡で深みのある 声楽曲に耳を傾けるようになり、このたびは畑儀文先生の指導により大作「ドイツ・レクイエム」と優美な哀悼歌「ネーニエ」を歌う機会を得たのは望外のよろこびである。 「ドイツ・レクイエム」(Ein Deutsches Requiem)の“ドイツ”という言葉がずしんと胸に響き、そして想いはヘルマ・サンダース=ブラームス監督の「ドイツ・青ざめた母」 (Deutschland Bleiche Mutter)という映画の印象へと繋がって行く。二度の世界大戦から東西分裂に至る前世紀ドイツの苦悩に満ちた歴史を女性の立場から描いた この記念碑的な映画は、ドイツ語により“ドイツ人のこころ“を奥底まで究めて築き上げられたブラームスの音楽と内面的に通底しているように感じられるのである。先年他界したサンダース 監督の最後の映画「クララ・シューマン 愛の協奏曲」にはM・ジディという美青年の新進俳優がブラームス役を演じていて、“憂鬱、重厚”というよりは“奔放、快活”な人物に描かれており、 長年抱いてきた私のイメージは改変を迫られたのであるが、複雑な性格だったと言われるブラームスは“気難しさ”と“大らかさ”の両面を具有していたに違いない。

 以上、ブラームスに関する管見を、観た映画や読んだ小説の回想にことよせて述べてみたが、冴えない雑話のお口直しに冒頭で触れたカーダスの<ブラームス観>と音楽史家ヘルツフェルトの <ドイツ・レクイエム紹介>の一節を抜粋して結びとしたい。


“ブラームスにあっては、青春は老年を目指し、老年は知恵が長い年月を振り返るときの衝動を見出した。ハンブルグがウイーンと手を結んだ。早春の霜がブラームスのメロデイーの流出を いったん凍らせた。しかし真昼と成熟の日光が源泉―民謡という源泉―を溶かし、次第に大きく流れて両岸の堤を広げ、古典的な壮大さと威厳、穏やかさと温かさを獲得した。~なんという 多様な芸術であろう。”
(「近代の音楽家」120ページ)
“ブラームスの「ドイツ・レクイエム」が書かれたのはわりに早く、35歳のときである。一般に作曲家はその晩年に至ってこのような曲を作曲しようと考えるものであるが、彼は若い頃に すでに考え深い、また人生の苦難に思いをいたす芸術家であった。プロテスタントであった彼はラテン語のレクイエムのテキストにとらわれる必要がなかったので、ドイツ語の聖書から選び 出して曲の台詞としたのである。この曲が初演されたのはワーグナーの「ニュルンベルグの名歌手」の初演と同じ年だった。ドイツの最も美しい国民オラトリオの一つである。”
(「わたしたちの音楽史」渡辺護訳 白水社 231ページ)

付記 
  • ブラームス(Johannes Brahms)は1833年にハンブルグで生まれ,1862年にウイーンに移住し、生涯独身で1897年に64歳でウイーンで没している。
  • ドイツレクイエム」は全7曲が完成されるまでに10年余りかかっており、初演は1868年(=明治元年)にブレーメンで行われた。
  • ヘルマ・サンダース=ブラームス(1940年~2014年)はブラームスの生粋の末裔であり、「ローザ・ルクセンブルク」「ハンナ・アーレント」などの傑作を生んだM・ⅴ・トロッタとともにニュー・ジャーマン・シネマを代表する女流映画監督である。
  • 「ドイツ・レクイエム」とあわせて演奏する「ネーニエ」(Nänie)は、1881年にブラームスが友人の画家A・フォイエルバッハの死を悼んでF・シラーの詩に作曲した哀悼歌で、“彼は死んでも、その芸術はいつまでも生き残って行く”という気持ちをこめて書かれたという。両曲のそれぞれの成立背景については池田理代子が「愛と苦悩 ブラームス」(音楽之友社)でやさしく挿画入りで解説している。


ドイツレクイエム(ドクレク)を歌おう

 
テナー  広田

ヴェルディのレクイエム(ヴェルレク)の次はドクレクが歌える。何と幸いなるかな。練習が始まる前にこの名曲について小生の知るところを少しばかり述べておこう。

作曲家はブラームス。この人はベートーベンを心の師と仰いだ人である。19世紀ドイツロマン派の作曲家たちは全てベートーベンの弟子である、と言っても過言ではない。中でも、 特に優秀な弟子はシューマン、ブラームス、ブルックナー、マーラーであろう。この4人に共通しているのは、複数の交響曲を書いて、それが全て現在まで演奏されていることである。 シューベルトやメンデルスゾーン、チャイコフスキーなども複数の交響曲を残しているが、残念ながら全交響曲が傑作として残っているわけではない。

さらにこの4人は傑作オペラがない、という共通点がある。師匠のベートーベンもフィデリオというオペラが1つ残されているだけである。このフィデリオも前半こそ動きがあるが後半は 登場人物がほとんど動かなくなり、オペラというよりもオラトリオみたいである。しかし、創作意欲がなかったわけではなく、エグモントやコリオランなど序曲は多く残されている。 また、同時代のウェーバーのオペラ、摩弾の射手に登場する4連ホルンに刺激され「ワシは8連ホルンのオペラを書く」と言ったそうだが、最後まで実現することはなかった。おそらく、 ベートーベンとその弟子たちはオペラが苦手であろうと想像する。生真面目で、理想主義者で、人類愛とか魂の救済などを表現することが得意な人たちは、惚れた晴れたで男と女が くだらない駆け引きをするシナリオに音楽を付けることをよしとしなかったに違いない。

余談ながらソプラノとテノールの純愛をバスとアルトが邪魔をする、という展開のオペラが最もヒットしやすい。椿姫、蝶々夫人、リゴレットなど全てそうなっている。だから、 オペラ歌手の場合、ソプラノは美人、テノールはイケメン。アルトとバスは憎々しく邪悪な面構えをしているほうが良いと思う。ちなみに複数の傑作オペラを残した作曲家をみると、 モーツアルト、ロッシーニ、ヴェルディ、ワーグナー、プッチーニなどがあげられる。これらの面々をみるとベートーベンとその弟子たちとはずいぶん性格が違いそうである。その違いを たとえて言えば、次のとおりである。妻を持つ男が、抜き差しならない浮気の現場を押さえられたとする。ベートーベン派の面々は妻に対して「済まぬ、オレが悪かった。もう2度とやらない」 と言って土下座して許しを請うであろう。一方、モーツアルト派の対応は「知らぬ。身に覚えがない。オレは昨日酒を飲んだ。その後の記憶が全くない。身に覚えがない」とシラを 切り続けるであろう。それぞれの考え方を解説する。①過ちを犯した。しかし、誠心誠意謝れば必ず許してもらえるであろう。②ここで謝れば100%浮気が確定してしまう。女性は心の片隅に 浮気はウソであってほしいと願っている。シラを切り続ければ99%信じないが1%「もしかしてこの人は本当に酒に溺れて意識をなくしていたかもしれない」と思うかも知れない。この1%が 救済になるのだ。ブラームスは①タイプであり、モーツアルトやヴェルディは②タイプであろう。

そんなブラームスの心の師はベートーベンだが直接の師匠はシューマンであった。彼は、師匠の奥様であるクララシューマンに思いをよせる。しかし、シューマン死後も2人は良き友人では あっても、結ばれることはなかった。ブラームスの楽曲はアルトに限りなく優しく美しいメロディが惜しみなく与えられる。一方で、テノールに は難しく厄介なフレーズが多くあてがわれている。 おそらく、クララシューマンはアルトだったのだ。そして恋敵のロベルトシューマンはテノールだったに違いない。ブラームス本人はテノールだったと伝えられるが、性格や風貌から判断して バリトンだったのではないかと小生は疑っている。

さて、ドイツレクイエムであるが、これは通常のミサ典礼文(ラテン語)ではなくドイツ語である。テキストの内容も聖書の詩篇などから自由に抜粋されており、特殊なレクイエムである。 一般にレクイエムには続唱(ディエスイレ)と呼ばれる長大な部分があり、これがクライマックスを形成している。ヴェルレクがそうだし、モーツアルトのレクイエムもそうである。ところが、 19世紀にフォーレがディエスイレのないレクイエムを発表し、これが大ヒットしてからラターなどもディエスイレなしの作品を発表するようになった。ドイツレクイエムも第6楽章にそれらしい 部分が一部あるものの、どちらかと言えばディエスイレなしに分類されると思う。

これは、おそらく同じキリスト教でもプロテスタントの影響が大きいと思う。カトリックのミサ典礼文はローマ時代の昔から定められたものであるが、その内容は恐ろしきみいつの大王が 出てきたり、呪われし者は地獄の業火に焼かれ、祝されし者は天国に導かれる、などおよそキリスト教らしくない、ゾロアスタ教のような記述が散見される。プロテスタントの主旨は聖書に帰る ことであり、聖書によれば罪深き我々はイエスの受難によりその罪を取り除かれ、許されし存在になっているはずなのである。そうであれば、レクイエムの意義は恐るべき最後の審判を描く ことではなく、死者の安息と残されたものの慰めが主体となるべきであろう。

ドイツレクイエムにはそのような思想が色濃く見える。だから、この曲のメインテーマは第1楽章、第4楽章、第7楽章の3つであり、その他の楽章はグリコのおまけのような付属品である。しかし、 この付属品の楽章はそれぞれに個性豊かで雄弁である。なお、プロテスタントの教祖はルターであり、この人は聖書をドイツ語訳したことで有名であるが、讃美歌をドイツ語で歌うことを始めた のもルターである。これはのちにコラールとなり、コラールを完成させたのが、かのヨハンセバスチアンバッハである。ともかく、クラシック合唱音楽に燦然と輝く名曲ドイツレクイエム。 これから1年。畑先生と共に楽しみましょう。

以上