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宝塚混声合唱団

Takarazuka Konsei Gasshodan (Takarazuka Mixed Choir) since 1980


第30回音楽会 ドヴォルザーク「レクイエム」に寄せる想い   Essays

2018年8月25日(土)の第30回音楽会では、兵庫県立芸術文化センターKOBELCO大ホールでブドヴォルザークの「レクイエム」をオーケストラと一緒に歌います。音楽会に先がけ、団員からの「ドイツ・レクイエム」に向けた想いをご紹介いたします。

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エッセイ1:「1枚の古いLPレコードからの連想 ― ドヴォルザークあれこれ ―」福田 伸
エッセイ2:「ドボルザークのレクイエム」広田 修


1枚の古いLPレコードからの連想

― ドヴォルザークあれこれ ―

 
テナー  福田 伸

2015年春の午後、宝塚栄光教会の「チャペルコンサート」で畑儀文先生が歌われるドヴォルザーク「聖書の歌」全10曲を初めて聴く幸運に恵まれた。 聖書詩篇から採られたこの清明で敬虔な歌曲が、「交響曲9番(新世界より)」と相前後してアメリカ滞在時の1893年に作曲された傑作であることを知ったが、 10曲のなかで第7曲「バビロン河のほとりで」と第10曲「新しきうた、歌え主に」はどこかで聞き覚えがあり、思案しながら家路についた。第10曲は“雪やこんこ~”で始まる 文部省唱歌「雪」に似ていて、近代日本の西洋音楽受容に夙にドヴォルザークが及ぼした影響に直ぐ思いが及んだが、第7曲については思い出せないまま日が過ぎてしまった。

ブラームス「ドイツ・レクイエム」に続いて、今年夏はドヴォルザークの大作「レクイエム」を演奏することが決まったので、旧臘、曲全体に少しでも馴染んでおきたいと思い、 M・ヤンソンス指揮、コンセルトヘボゥ演奏のCDをアマゾンから取り寄せたついでに、過去に聴いた演奏会のプログラムや手持ちのCDの中からドヴォルザークの曲を物色していたところ、 阪神大震災の折に処分したはずのLPレコードが少し残っていて、「ポール・ロブスン・イン・ホーリーナイト」というモノラル盤が見つかった。 黒人霊歌を中心とした20曲ほどの聖歌のなかに、ドヴォルザークの歌曲が3曲含まれていて、擦り切れた盤から、野太い、素朴なバスが「バビロン河のほとりで」を チェコ語で朗々と唱っているのに気付き、60年ぶりに記憶の糸が繋がった。

ロブスン(注1)といえば、20世紀半ばに活躍したアメリカの黒人歌手で、牧師の家庭に生まれ、俳優、運動選手、法律家、言語学者などの肩書を持つ万能の偉才であったが、 反戦、平和、公民権運動の熱烈な闘士であったため、東西対立の激化に伴い、連邦政府から海外への渡航を禁じられ行動の自由を失っていた。 当時、新進の政治学者で音楽にも造詣の深かった丸山真男が病床から雑誌「世界」にロブスンの消息についての随想(注2)を寄せていたのを読んで興味を抱き、 首尾よくロブスンの盤を見つけて購入したのが上述のLP(注3)である。病癒えた丸山が論壇の前線に復帰して第一次安保闘争の思想的支柱として発言していた頃、 出版されたばかりのロブスンの自伝「ここに私は立つ」(注4)を読んで、“音楽の世界的一体性”の提唱に同感しながら、あまりにも理想主義的な政治信条には共鳴しきれず、 いつしかその歌声も生涯も私の脳裏から消えてしまっていた。

さて、私がドヴォルザークに関心を抱くようになったのは、昭和54年秋、「ドヴォルザーク没後75年祭」が東京有楽町の<朝日ホール>で開催され、 属啓成、佐川吉男の講演とJ・ホラーク、外山滋ほかによる「ピアノ3重奏曲」(ドゥムキー)、「スラブ舞曲集第1集」を聴いたのがきっかけだった。 その直後に「浅沼稲次郎殉難(注5)20周年演奏会」(日比谷公会堂)で外山雄三が指揮するN響の「交響曲9番(新世界より)」を聴いて熱狂的な雰囲気に驚き、 また、チェコから来日したZ・コシュラーが都響を指揮する「交響曲8番(イギリス)」を上野の<東京文化会館>で聴いて、清冽なメロデーと力強いリズムに惹き込まれた。 さらに、ヴァイオリニスト黒沼ユリ子が書いた「わが祖国チェコの大地よ」(注6)を読んで、ボへミヤの片田舎に生まれた貧しい少年が世界的な音楽家に育って行く真摯な人生の 軌跡を知るいっぽうで、<プラハの春>の圧殺をくぐりぬけて<ビロード革命>へと向かって行く小国の健気な歩みに共感が深まって行った。

昭和59年の秋、大阪へ転勤してまなく、<ザ・シンフォニーホール>の「NTT・N響コンサート」でW・サヴァリッシュ指揮、A・ツィンメルマン独奏の「ヴァイオリン協奏曲」に めぐりあったのを皮切りに「チェロ協奏曲」「弦楽四重奏曲(アメリカ)」など躍動的で均整のとれたドヴォルザークの器楽作品に関心が向くようになり、定番の「交響曲8番、9番」を 在阪オケの定演などで聴く機会が増えた。なかでも忘れ難いのは、20世紀最後の年の冬、最晩年の朝比奈隆が<フェスティヴァル・ホール>の大フィル定期で「交響曲8番(イギリス)」を 振り終えた瞬間に起った聴衆の異常な歓声と尽きない拍手の嵐のことである。加えて「交響曲7番」をテームズ川畔の<ロイヤル・フェスティヴァルホール>(ロンドンフィル 指揮A・リットン 1989年秋)で聴く という稀有の機会を得ながら、睡眠不足のため途中で居眠りをしてしまった悔しい思い出もある。

合唱経験の少ない私が晩年になってドヴォルザークの大曲「スターバト・マーテル」を歌うため、宝塚混声合唱団に入団を許されてはや15年。いまひとたびドヴォルザークを、 それも彼が最盛期の1890年に、「交響曲8番」に続いて作曲した名曲「レクイエム」を歌う機会に遭遇できたのは長生きの余得というほかない。 昨年、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」を練習する過程でドヴォルザークに“ボヘミアのブラームス”という異名があることを聞き知った。ブラームスに音楽才能を見出されて世に出た ドヴォルザークは、生得の豊かな旋律創造力にブラームスが持つ絶対音楽的な構成力を重ね合わせ、さらにイギリスやアメリカに招かれて得た5音階旋法を生かして 祖国の大地に根ざした率直,平明で後世に残る多くの名曲を生み出した。エルベの下流域で生まれ、プロテスタントの風土で生育したブラームスの内燃的な瞑想性と エルベ上流域のヴァルタヴァ川畔で質朴なカソリック教徒として育ったドヴォルザークの外延的な包容性との対比。ともに祭典用ではなく演奏会用として作曲しながら、 ブラームスが10年を超える懐妊期間を経て苦吟のうえ完成した「ドイツ・レクイエム」と、構想の熟成を得て一気に書き上げたドヴォルザークの「レクイエム」との創作過程の相異。 そんなことにも想いをめぐらし、思索的で美しい旋律に溢れたこの巨大な聖曲の練習に励んで行きたい。


注1.ポール・ロブスン(Paul Robeson):1898年~1976年
注2.「世界」(岩波書店)昭和31年6月号に<断想>という題で掲載された。筆者の丸山真男(1914~1996)は 当時肺結核のため政治学の研究活動を休止して、病床から音楽や映画に関する時評など余技に属する分野で青年・学生たちに語りかけ高い人気を博していた。
注3.「新世界レコード社」の出版。録音場所、録音時期は不明。配価1,500円。京都のソ連系書店で購入した。
注4.「ここに私は立つーアメリカ黒人歌手の自伝」(P・ロブスン 岩崎昶訳 光文社カッパブックス 昭和34年刊)。 本書でロブスンは、ドヴォルザークを証例に各地の民族音楽の“世界的一体性”の樹立に言及している。
注5.昭和35年10月12日、東京の日比谷公会堂の壇上で講演中であった日本社会党委員長の浅沼稲次郎が17歳の右翼少年山口乙矢に刺殺された衝撃的な事件。
注6.「我が祖国チェコの大地よードヴォルジャーク物語―」(黒沼ユリ子 リブリオ出版 1982年刊)。青少年向きに書かれているが、ドヴォルザークゆかりの地をくまなく訪ねて、生涯と 作品の魅力を伝えてくれる見事な著作。


ドボルザークのレクイエム

 
テナー  広田 修

アントニン・ドボルザークは1841年9月プラハ郊外、北ボヘミアに生まれる。生家は肉屋と宿屋を営んでいた。専門ではないが音楽愛好の家庭であり、父親はツィターという弦楽器の 名手であった。 アントニンは肉屋の跡取りであったが、当時ボヘミアの肉屋の免許取得にはドイツ語の習得が必須とされていた。ドイツ語の先生はリーマンといい、母方の伯父であったが、 教会のカントルでもあり、音楽理論をも教えていた。

尋常ならざる音楽的才能はすぐに見出され、両親の反対はあったが、リーマン先生の強い勧めにより、アントニンは音楽の道を志すことになった。

プラハのオルガン学校を卒業後、ビオラ奏者としてオーケストラに勤務。ドボルザークの音楽で低音が魅力的なのは、ビオラ奏者という原点が影響しているかも知れない。 ここでスメタナの指導を受ける機会を得る。この時期に裕福な商人チェルマーク家の音楽教師となり、長女のヨゼフィーナに思いを寄せるが失恋。

後に次女のアンナと結ばれることになる。 教え子の姉に振られて妹をモノにするところはモーツアルトと似ている。ところが、このアンナが良妻賢母のしっかり者でドボルザークの音楽活動を 生涯にわたって全面的にサポートする。モーツアルト夫人のコンスタンツェは浪費家悪妻の汚名を歴史に残したが、全く対照的である。音楽の才能では及ばなかったかもしれないが、 女性を見る目に関しては、ドボルザークはモーツアルトをはるかに上回っていた。ついでに言えばコンスタンツェはソプラノ、アンナはアルトであった。

ドボルザークの出世作は1873年に発表された賛歌「白山の後継者たち」である。 この作品の成功により作曲家としての地位が安定、この年の秋にアンナと結婚する。その後、 たびたびオーストリア政府の奨学金獲得のために作品を提出していたが、これが審査員をしていたブラームスの目にとまり高く評価され、知遇を得ることになる。

アンナとの間には生涯を通じて9人の子宝に恵まれるが、1875年長女を失い、1877年には次女と長男を相次いで失う。この時の衝撃と悲しみが傑作「スタバトマーテル」を 生み出す。「スタバトマーテル」の評判はすこぶる高くドボルザークはプラハの地方作曲家から国際的大作曲家へと飛躍する。とりわけ、イギリスにおける評価は高く、何度も上演された。 当時、ヨーロッパ特にイギリスにおいては宗教合唱音楽が隆盛し、スタバトマーテルに続く大曲の制作が相次いで依頼された。「幽霊の花嫁」と「聖ルドミラ」という2つのカンタータが 発表されたが、思ったほどの成功を収めることができなかった。この2曲は専門的には名曲と評価されるが、チェコ語というハンディが一般の理解を困難にした。余談ながら、ドボルザークの 最高傑作オペラは「ルサルカ」であるが、これもチェコ語である。ドボルザークは母国語のほかドイツ語と英語に堪能な国際人であったが、音楽の根底にはチェコ語のリズムと感性が流れている。

さて、レクイエムであるが、この作品はイギリスのバーミンガム音楽祭のために委嘱された。ヴェルディのレクイエムと同様、演奏会のための作品でありミサ典礼は想定されていない。 モーツアルト(自身の死)ヴェルディ(友人の死)、フォーレ(母の死)などに比べ作曲に関する動機や物語性は乏しい。しかし、前述のように「スタバトマーテルに劣らぬ宗教的大曲」に 周囲の期待は高く、ドボルザーク自身も並々ならぬ創作意欲を燃やして作曲に取り組んだ。1890年1月に着手され1890年10月に完成。1891年10月バーミンガムにおいて 作曲者自身の指揮により初演された。

第1曲 入祭唱とキリエ
冒頭に半音階のジグザグ音形、いわゆる 十字架音程が出現する。この動機は全曲を通じて繰り返され、生と死の不思議を暗示する。この動機はバッハの ロ短調ミサ、第2キリエとの類似が指摘される。余談ながらBACH(バッハ)はアルファベット文字がすべて音名であり、その並びがそのまま十字架音程になっている。バッハ自身このことが 自慢であり「私は音楽の神の申し子である」と言ったとか言わないとか。終結部のキリエで十字架音程が再現され、合唱はピカルディで終止する。ピカルディとは短調の最後の和音を 長三和音で終わらせる作法で、決して「ピカリと光る」という意味ではない。が、この部分にはまるで光が差し込むような効果がある。

第2曲 昇階唱
近現代のレクイエムでは省略されることが多く、曲がつくことは珍しい。ソプラノソロと合唱の交唱で進行する。最後、ソプラノソロがアルトのような低音を響かせるフレーズは、 地味ながら聞かせどころだと思う。

第3曲 ディエス・イレ(怒りの日)
この旋律は明らかにグレゴリオ聖歌「怒りの日」の発展形である。オーケストラの響きが強烈、3連符には何か恐ろしいものが迫ってくるような感覚があり、 恐怖を掻き立てられる。作曲者の意図を忠実に反映させるためには、厳しく正しいリズムが要求される。

第4曲 トゥバミルム(奇しきラッパの響き)
ラッパの音とともに最後の審判を受けるために死者が蘇るのを見て、死と自然界は驚くであろう。生と死の神秘を表象する例の動機に導かれて アルトソロが歌いだす。後半はディエス・イレが再現される。

第5曲 クィドスムミゼル(哀れなる我)
まるでうめくような半音階上昇調の合唱、生と死の神秘を表象する動機。後半はレックストレメンデ(恐るべきみいつの大王)が厳粛に歌われる。 「みいつ」とは御威光という意味。神は光り輝いておりその顔は直視できない。審判の厳しさをソロと合唱で表現する。最後はサルバメ(我を救い給え)と静かな祈りで終息する。

第6曲 レコルダーレ(思い出し給え)
慈悲深きイエス様。あなたが人間の世界に降臨され、苦しみと辱めを受けたことは、この私のためでもありました。望むらくはその労苦を無駄に しないでください。テノールソロから始まり美しい4重唱が展開されるが、合唱の出番はない。

第7曲 コンフタティス(呪われし者は口をふさがれ)
まるで地獄の業火を思わせる激しい伴奏に導かれて合唱が歌いだす。この部分はワグナーを想起させる。19世紀後半のこの時代、 ドイツ楽壇はワグナー派とブラームス派が対立していた。ドボルザークはブラームス派の重鎮であるが、若いころはワグナーに傾倒し、ワグナー風のオペラを作曲したこともある。しかし、 評判はいま一つであった。

第8曲 ラクリモザ(涙の日)
審判者に答えるために人間たちが灰からよみがえるその日こそ涙の日である。モーツアルトやヴェルディのレクイエムでは人間の弱さや悲しみを哀切的な メロディで訴えるが、ドボルザークは審判の厳しさと永遠の安息を願う祈りを音楽にしている。最後はアーメンコーラスで終息。

第9曲 奉献唱
木管の格調高い前奏からバス合唱が「主、イエスキリスト、栄光の王」と厳かに歌い出す。リベラアニマス「魂の救済」から4重唱と合唱のかけあいが展開する。 後半はフーガ。私たちの魂の救済は主がアブラハムとその子孫に約束したことです。神に対して契約の確実な履行を繰り返し要求する。

第10曲 オスティアス(生け贄)
独唱「主よ、賛美の生け贄と祈りを受け入れ給え」から始まり、合唱「死から生へと移しかえる御業をなし給え」と結ばれる。後半は前曲と同じフーガが 繰り返される。

第11曲 サンクトゥス(聖なるかな)
万軍の神なる主を讃える歌。後半のベネディクトゥス(祝福されますように)は別の曲として作曲される場合もある。最後のオザンナインエクシェルシスは 「いと天高きところにオザンナ」と翻訳される場合が多いが、オザンナという何者かが天に出現するわけではない。「主の栄光を讃える声が天高く響き渡りますように」である。

第12曲 ピエイエス(慈悲深きイエス様)
サンクトゥスの後にピエイエスを置く様式はフランス式ミサ典礼に多く見られるもので、フォーレのレクイエムもこの様式をとっている。世間一般の 評判は「ピエイエス」といえばフォーレであるが、ドボルザークの作品も大変魅力的である。

第13曲 アニュスデイ(神の子羊)
神の子イエスが人間となって降臨し、我々になりかわり世の罪を購ってくださった。キリスト教独特の神秘的な救済の教え。後半、ソプラノソロが ルクスエテルナ(永遠の光)と歌い、ここからが聖体拝領唱となる。最後は「絶えざる光を彼らの上に照らし給え」敬虔な祈りの音楽。十字架音程が再現して、静かに幕を閉じる。

レクイエムを完成させた後のドボルザークは1892年アメリカに渡る。ボヘミアの田園を愛する彼は、最初、渡米には消極的であったが、高額な年俸とニューヨークナショナル音楽院の 理事長ジャネット・サーバー夫人からの熱心な勧誘にほだされものである。サーバー夫人は初恋の人ヨゼフィーナの面影を宿す魅力的な女性だった。アンナという素晴らしい嫁さんが いるにもかかわらず、アントニンが本当に好きだったのはヨゼフィーナだったのかも知れない。アメリカに渡ったものの、望郷の念絶ちがたく苦しむことになる。が、創作力はこれまで以上に 充実し、傑作「新世界より」や「チェロ協奏曲」を作曲する。ドボルザークには気の毒であるが、苦難(シュメルツ)が名曲を生み出す原動力となっている。1895年ヨセフィーナから手紙。 彼女が瀕死の重病であると知る。サーバー夫人との契約を2年あまり残したまま、同年4月に帰国。しかし、5月ヨセフィーナ他界。ドボルザークはチェロ協奏曲に手を加え、彼女が 好きだった歌曲のフレーズを挿入して万感の思いを表現した。アンナがこのときにどういう気持ちであったか、想像することはできない。

音楽家としての栄誉をほぼ手に入れたドボルザークが最後に望んだのは、オペラのヒット作を書くことであった。1900年「ルサルカ」を完成させ1901年に上演されヒットしたが、彼が 望むほどのヒットではなかった。1904年脳出血により62歳で死去。朝ドラの主人公のような波乱に満ちた生涯を閉じた。